先日、私、久しぶりにブチ切れてしまいました…(^^;)
ここ最近は、子どもたちも大きくなり、だいぶ怒ることも減りました。
が、そんなに毎日毎日仏のようなほほえみをしてはいられません。
何があったのか…。
それは夕飯についてのお話で。
先日のお休みの日の昼間、
ひまを持て余している長男と自転車でサイクリング&運動がてら長野駅周辺へ。
そこそこ暑い日。
長男とちょっと買い物をし、スタバで抹茶フラペチーノを飲み、帰ってきました。
とここまでは楽しくてよかったんです。
そこから…。
暑かったせいか疲れて少し昼寝をし、洗濯物を入れたたみ、
そして夕飯を作り始めました。
肉じゃがを作ろうと思い、玉ねぎとジャガイモと人参を切っていたら、次女が
「え~、肉じゃがなの?私、カレーがいいな」
その声を聞いた長男。
「おれも~」
まだ水で煮始めたところだったので、
「わかった~」
といって、カレーに変更することに。けれど、カレーだと野菜の量が足りないからと、さらに玉ねぎとジャガイモの皮をむいて追加。
煮ている間に他のおかずを作ろうと、長女に
「ちょっと手伝って~!」
と声をかけたら、
「えー、なんで私なの??」
と。まあ、そこまでは、
「自分も食べるんだから、いいじゃん」
といいつつ、なんだかんだとバタバタしていたら、7時半を過ぎてしまったころ。
夕飯を作っている途中で外で出て遊んでいた長男が、家に入ってくるなり、
「えー!まだご飯できてないの??」
プッチーン!!!!
「あぁっ??
なんだって?
そんな言い方ないんじゃないの?
みんなが手伝ってくれたらもっと早くに食べられたよ。
一人はYouTube見てる、
一人は外へ行く、
一人は手伝ってっていっても文句言ってくる、
その上にまだできてないっというとはどういうことなの~??!!!」
(皆さんのご想像通り、もっとキツイ言葉遣いです(笑))
「こっちだってがんばってるんだよ!
そんなに言うなら、自分達でご飯やりなさいよね!!!」
と、放棄(^^;)
子どもたちは、自分達でご飯を盛りカレーをかけ、夕飯を静かに食べました。
翌朝。
それでも私の怒りは収まらず、子どもたちの声を聞こえないふり。
さらに高校生の長女の弁当作りをボイコット。
みんなでかけた後、
「なんだかちょっとおとなげなかったか…」
と思ったのです。
その夜。セッション練習会があったので、コーチにその話を聞いてもらいました。
そこで、
「あなたにとってのおとなげがあるってどういうことなんですか?」
「それは、ちょっとのことでは怒らないとか、器が大きいとか、寛大な人って感じです」
と答えて、ハッとしました。私の中に、
母というものは、いつでも「うつわが大きくなければならない」「多少のことには目をつぶる」べき
があると感じたのです。
一人の人間の前に母という立場がくる。
はっきり言って苦しいものです。
自分の怒りや悲しみを我慢して、寛大な人のフリをしないといけないのですから。
それをいつでもと思っていました。
いつでも寛大な母を演じるということは、本当に大変なこと。
母より以前に一人の人間としてもそこに存在するわけで、怒ってもいい。
もちろん、けったりたたいたり、すごくひどいことを言ったりするのはいけないけれど。
コーチの言葉はすごく響きました。
そして
「なんでも言い合える家族っていいですね。これがいいとか、いやだとかも含めて」
と。それを言われて、気がラクになりました。
悪いことをしたなという風に思っていたけれど、人から見たら、言いたいことを気軽にいえる仲とは、その時、考えてもいなかったから。
「母」とか「人」とかいう理想像は今やそこら中にあって、
理想をもとめるのもいいけれど、四六時中それに縛られるのは、キツイ。
みんな、おこることもあれば、泣くこともわらうこともある。
毎日、すごく怒るわけじゃないのだから、
「こんな日もあるよね」
という感じで気楽にいけばいいんじゃないかなと感じることができました。
でもね。私。理想像とかそういうところに引っ張られがち。
最近、やっと自覚しています(^^;)。
今朝。
長女にはお弁当を作りました。
長女。私のところへきて、
「いつもお弁当を作ってくれて、ありがとう」
と、一言。
長女は、そういうところが長女らしいなと感じます。
言えばいいってもんじゃないけれど、言われたらやっぱりうれしいものです。